姫野雅義の吉野川日記
2006-11-02T22:59:55+09:00
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吉野川と第十堰問題の いま
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10月18日(水)晴 ブログ一休み
http://himeno.exblog.jp/5892221/
2006-10-19T01:44:00+09:00
2006-10-19T02:02:19+09:00
2006-10-19T01:44:14+09:00
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翌日は朝から,第十堰資料の編集が,本格的に始まる。
来週末は,多重債務問題の全国集会が松山である。
その翌日は,熊本で水源連の全国総会だ。
再来週木金は,日弁連の一行が第十堰に視察にくる。
吉野川の河川整備計画の作り方を調べに来るのである。
その日今年の川の学校最終回も善入寺島で始まる。
さらに週末,中国からは,世界遺産「都江堰」研究の第一人者,周魁一教授ほか著名な学者が第十堰にやってくる。日曜の午後,ふれあい健康館の講演会(通訳付)はおすすめである。
今夜はみんなの会の例会。
あっと驚く来年の企画を若い人たちに作らせるつもり。
買ったばかりのパパチャリで出かけた。
鮎喰川を越えると,畑の中の暗闇道が続く。
だが,なつかしい本物の暗闇は,もうなくなっている。
ブログは当分できない。駆け足で予定のみを記しておく。]]>
10月12日(木)晴 マイ自転車
http://himeno.exblog.jp/5854198/
2006-10-12T16:22:00+09:00
2006-10-12T22:09:45+09:00
2006-10-12T16:22:03+09:00
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ボディのひび割れが進み,ライトは壊れ,ブレーキもすり減り,
湿度の低い晴れの日が続くと,ギーコギーコと音がする。
そしてきのう,ついに前輪がパンクしてしまったのだ。
たかだか歩道と車道の段差の軽いショックで。
これはもう寿命に違いない。
村上市議の行きつけの,ナカニシサイクルに行った。
ロードレーサーとか,マウンテンバイクとか,
かっこいいスポーツ車が,ラインダンスのように並んでいる。
だが店主は,客の特性を一目で見抜いたらしく,
ラインダンスの方は見向きもせずに,カタログをぼくに見せた。
「これがママチャリ」
ふんふん
「つぎはババチャリ」
えっ,ババチャリ・・・・
「そしてパパチャリ」
ぱっ,ぱっ,ぱぱちゃり・・・!
「姫野さんにはパパチャリの6段変速,かご付,自動空気入れ付がいいでしょう。
そうそう腰痛対策に大きなサドルに変えておきましょう」
なんという慧眼。その気配り。
さらに,
ぼくの視線が,ちらっと店頭の特売コーナー8800円の中国製に行ったのを
かれは見逃さなかった。
「あ,1万未満はいわば使い捨て車です。環境には良くないですねえ」
「そ,そ,そうですね。使い捨ては良くないなあ」
こうして,ぼくは34900円也のブリジストンの「パパチャリ」を買ったのである。
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10月9日(月)快晴 秋の三連休
http://himeno.exblog.jp/5837718/
2006-10-09T21:44:00+09:00
2006-10-10T00:22:11+09:00
2006-10-09T21:44:21+09:00
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徳島空港に講師のりんさんを出迎えに行ったら,羽田発日航機は,
あまりの強風に2度も着陸をやり直し,20分遅れで到着した。
川ガキたちと釣り場へ向かう途中,10センチほどのヨウジウオを見た。
吉野川では,中学生のとき以来の,なんと45年ぶりの対面だ。
玄さんによると,今年はジンタ(ヒイラギのこと)もいっぱいいる,とのこと。
これまたなつかしい魚(コッチン釣りのえさ取り)なのだ。
8日6時シュラフから這い出る,風は治まらない。
午前中,釣り場探しに飽きたこどもたちは寝てしまった。
昼から,第十堰の視察旅行にきた広島県の高校の先生6人のお相手。
夕方から事務所に帰り,住民運動の法律的検討,について話し合う。みんな,あまり好みではないが,活動基盤にかかわるので,絶対におろそかにできないのだ。
9日の吉野川は,スコーンと快晴の秋空。
午前中,第十堰資料編集の方針を協議。
午後は,古い第十堰資料を探すべく,明治時代の新聞記事をコツコツと閲覧している仲間と,県立図書館で合流する。
夕方,東京に帰るりんさん,駒さんと川ガキ2人を,徳島空港に送る。
第十堰下流の中州でカワウの集団漁を見た。
小魚の群れを浅瀬に追いつめて次々に補食する。
なかなかの迫力である。]]>
10月2日(月)曇 国交省はなぜ議論に応じないのか
http://himeno.exblog.jp/5798698/
2006-10-03T02:04:00+09:00
2006-10-04T09:12:22+09:00
2006-10-03T02:04:08+09:00
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1日付の徳島新聞は、こういう見出しをつけた。
午後1時、107名の参加で始まった聴く会は、
冒頭からコモンズへの批判が噴出、波乱含みの展開となった。
終わったのは、午後7時。なんと6時間である。
出された意見は200を超え、なかでも
国交省の計画策定の進め方に対する、強い不満が噴出した。
この日国交省は、意見は聞き置くにとどめ議論はしない、という姿勢を通し、
コモンズは、住民の意見を引き出すのがファシリテータの役割、といい続けた。
これは何を意味するのだろうか。
住民意見は聴くだけ聞いた、という実績作りのために、結局のところ、
両者が役割分担しているということである。
会が終わりに近づいた頃、中身は何も言わなかった舘河川計画課長が、
「河川管理者の責任と権限」を大きな声で強調したのが、とても印象的だった。
ぼくは、それを聞いて、疑問がすうっと解けたように思った。
もはや国交省は、議論によって住民を説得できる自信がないのだ。
なぜなら、総合治水、環境目標、森林保全、縦割り行政打破、等々の住民の主張は正論であり、心ある河川技術者も真剣に考えている、難しいテーマに違いないからである。
だから、これらのテーマに正面から取り組もうとしない官僚たちに、議論で住民を説得できるはずはなく、「権限」を盾に取るしか自らの拠り所はなくなった、ということなのであろう。
おそらく国交省は、この日をもって第一クールの終わりとし、「意見聴取方式」を強引に既成事実化しようとしたいに違いない。さらにその既成事実をもって、「第十堰の検討」に踏み切るための条件と考えているのかもしれない。
もしそうなら、国交省はとんでもない見込み違いをしているのであり、住民はそんな方式で「第十堰の検討」を始めさせるわけはないのだ。少しは過去を学んだほうがいい。
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9月28日(木)晴 「30日にぶっつけるか」
http://himeno.exblog.jp/5773864/
2006-09-29T01:20:00+09:00
2006-10-02T21:18:34+09:00
2006-09-29T01:20:22+09:00
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それは5月の集中豪雨で延期となっていた大事なイベントだった。
しかも今回は久しぶりで第十堰でおこなうことになっていた。
吉野川に関係する多くの団体が集まり、ブース展示をおこなう。
ところが国交省は、なんとこの日に
「吉野川流域住民の意見を聴く会」をぶっつけてきたのだ。
意見を聴く会の開催を、新聞に載せたのが9月21日だから、わずか9日前だ。
多くの人は、すでに週末の予定を入れてしまっている。
前回109名中12名しか意見を言えなかったことから追加開催したはずなのに、
意見が言えなかった参加者へ連絡さえもしていない。
しかも会場は一般になじみのない徳島大学工学部の教室だ。
わざわざ意見を出にくい条件を選んで開催しているように見える。
いったい国交省は何を考えているのか。
向こう30年間の吉野川の河川整備の計画をどんな方式で作るか。
国交省は、計画の議論をするための「流域委員会」の設置を拒否し、
各方面からの「意見聴取」をくりかえす方式で、河川整備計画を作るのだという。
この方式の最大の問題は,継続的な議論の場が保障されていないため、
住民意見を反映するかどうかはすべて国交省の腹ひとつ。住民関与の余地がないことだ。
おまけに、この方式は徹底して秘密裏に進められ、抜き打ちで発表された。
いまもなお十分説明しようとしない。
これが、国交省河川計画作りの先端現場である。
不思議なことに、今回、第十堰の検討は先送りされている。
その理由は、2年も前の史上最大洪水の解析ができていないからだという。
冗談をいってもらっては困る。2年間なにをやっていたのか。
解析はとっくに出来ているはずである。
先送りにした本当の理由は、23号台風洪水で第十堰の検証をすると、
第十堰の安全宣言をしなければならなくなる。それが怖いのではないか。
それが怖いのは、可動堰への強い未練があるからではないのか。
もし可動堰の再検討が、この方式で始まったらどうなるか、考えてもらいたい。
だから、9月30日は、たくさんの人に行ってほしい。
思っていること、疑問点、をいっぱい国交省にぶつけてほしい。
なによりも、議論の場が必要だ。
納得のいく応答を求め続けなければいけない。
「吉野川流域住民の意見を聴く会」
9月30日(土)13時~17時
徳島大学工学部共通講義棟6階
(徳島市南常三島町2-1)
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9月26日(火)晴 大河津可動堰と第十堰
http://himeno.exblog.jp/5759250/
2006-09-26T19:41:00+09:00
2006-11-02T22:59:55+09:00
2006-09-26T19:41:04+09:00
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ここでは、平成12年に信濃川本流川にある洗堰(吉野川で言えば第十樋門のようなもの)が全面改築され、平成15年からは放水路側にある可動堰の全面改築が始まっている。
「改築事業」の必要理由は、①老朽化 ②堤防洗掘 ③流下能力不足(せきあげ)。あれ、どこかで聞いたような・・・。そう「第十堰改築事業」の説明と、瓜二つなのであった。違うのは、可動堰のスタイル。円弧状に回転するラジアルゲートという新方式が採用されたのは、第十堰問題に学んだためと思われる。
この大河津可動堰と第十堰という2つの堰は,玄人筋では,歴史的構造物の改築という点で共通点を見る向きもあるかもしれないが,ぼくは決定的に違うと思う。大河津可動堰は大正11年近代技術の粋を集めて作られた生粋の可動堰,第十堰はその170年も前の宝暦2年日本の河川伝統技術の粋を集めて生まれた石積み堰。基本思想が大きく違うのだ。
大河津分水は山を切り裂き地形を激変させた人工放水路だったが、吉野川はもともとあった別宮川に放水路としての機能を持たせたにすぎない。大河津可動堰は全面的水制御を理想とするが、第十堰は川への最小限の関与を良しとする。結果、第十堰は254年たってなお健在だが、大河津可動堰はわずか70年で老朽化した。維持管理は第十堰が年間数千万円,大河津分水施設施設はその数十倍であろう。大河津分水によって新潟平野は、洪水の悩みから解放され、屈指の米作地帯となったが,第十堰を可動堰化することによって吉野川流域の住民が得るものはなにもない。
大河津分水を見た後、足をのばしたいところがあった。良寛さんの生誕地、出雲崎である。
「災害に逢う時節には、災害に逢うがよく候。・・・是はこれ災害をのがるる妙法にて候」
良寛さんの禅僧らしいこの言葉を,ぼくは 大熊孝さんの名著「洪水と治水の河川史」(平凡社)で初めて知った。14年前の暑い日だった 。
大河津分水から日本海へ抜ける途中、偶然,国上山「五合庵」の矢印を見つけた。貞心尼が通った良寛さんの庵だ。寄ってみたかったが、きっといつか来るような気がして、結局寄るのはやめにした。
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9月20日(水)晴 刈谷田川第二の教訓はどう生かされたか
http://himeno.exblog.jp/5725139/
2006-09-21T01:08:00+09:00
2006-09-21T14:34:20+09:00
2006-09-21T01:08:23+09:00
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「刈谷田川治水にとって200m3/sのピークカットは、利根川治水における渡良瀬遊水地にも匹敵するものと思いました。渡良瀬遊水地が純然たる治水計画の中から生まれたものでないことを勘案すれば、治水思想という点ではしのいでいるといっても過言ではないと感じます。特に、今のご時世でこれをやるということは、通常の遊水地計画とは明らかに一線を画していると思います。膠着化している河川行政をブレークスルーするための試金石となりえるのではないでしょか。」
新潟県の河川技術者のみなさん。刈谷田川遊水地はやはり注目されていますよ。自信をもってがんばってください。
さて、黄金色の稲穂が広がる広大な遊水地を見たあと、訪れたのは中之島町の破堤現場である。
「同じ越水でも破堤箇所の被害は深刻です。あふれても壊れない堤防が急務ですね。」
ぼくの質問に,案内してくれた県の職員は「あふれても壊れない堤防は事業目標にはなりません」と答えた。ぼくは思わず首をかしげ,パンフレットを見た。
たしかに「7.13水害規模の洪水を安全に流下できるようにすることを目標とします」と書いてある。
そうか。これは、①遊水地で水を貯めて下流への流量を減らし②河川敷を掘削し河道を直線化して川の容積を増やす、という事業なのだ。あふれるのに備え堤防対策をする事業ではないのだ。再び7.13と同じ洪水が来たときには、今度こそあふれないようにする、というのが目標なのである。だからそれ以上の洪水は想定しない。
「結局それではいたちごっこじゃないですか」
と言いかけて、ぼくは言葉を飲み込んだ。彼らは、すべてわかっているのではないか、と思ったからである。
未曾有の超過洪水だった7.13水害から学ぶべきことは、1993年ミシシッピー川大洪水におけるアメリカがそうであり、2002年エルベ川大洪水におけるドイツがそうであったように、洪水対策の基本を「減災」路線へ転換させ、氾濫原管理を導入する、絶好の機会だということではなかったのか。だからこそ、県は中流で広大な遊水地を確保し、あふれる治水へ第一歩を踏み出した。ならば、密集地を抱える下流域では、まずは超過洪水でも壊れない堤防へ力を注ぐべきではなかったのか。
現場の技術者はわかっている?わかっているならなぜできないのだろう。再びパンフレットを読み直して気が付いた。その原因は事業予算の仕組みにあるのではないか。刈谷田川の事業は、災害復旧制度で行われているため「原型復旧」と「その改良」という範囲でしか事業化が認められず、それが大きな制約となっているのではないか、という疑問である。
災害復旧制度の仕組みはこうだ。単なる「災害復旧事業」であれば被災施設の原形復旧工事をおこなうだけだが、原型復旧だけでは再度の災害発生を防げない場合には「災害復旧助成事業(助成事業)」という改良事業をおこない、その結果下流で流量が増えるのに対応するためには「河川災害復旧等関連緊急事業(復緊事業)」という改良事業をおこなう。刈谷田川の事業はこの助成と復緊の二事業約500億円なのである。
下流で流量が増えるのを「改良」としている点に注目してほしい。この矛盾こそ河道主義治水の宿命なのであり,だから今回新潟県が、逆に、この助成事業を使い、遊水地を作って、下流の流量を減らすという「本来の改良」をおこなったのは見事というほかはない。
もし続けて下流部であふれても壊れない堤防づくりが始まっていれば、日本の治水史上の記念碑となったに違いない。だが洪水を河道に集めるのを「改良」とみる治水観からは、ついに「あふれても壊れない堤防」は「改良」とは認められなかったのであろう。国交省の石頭がまことに残念である。]]>
9月17日(月)曇 刈谷田川の遊水地
http://himeno.exblog.jp/5711983/
2006-09-19T00:33:04+09:00
2006-09-19T00:33:04+09:00
2006-09-19T00:33:04+09:00
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我が国「最先端」の治水事業を紹介しよう。先週,新潟県の刈谷田川に行ってきた。
2004年7月13日、想定を遙かに超える洪水が発生して、上下流6カ所の堤防が決壊し、死者12名を出す被害が出た。この水害の教訓は2つあって、①堤防をあふれる大洪水は必ず発生することを想定べき。従って、②あふれても決壊しない堤防にしないといけない、ということである。
新潟県の打った対策は思い切ったものだ。中流域の川沿いにある90haの水田を広大な遊水地として,ここに200m3/秒の洪水を遊ばせることにしたのである。下流の密集地であふれる前に、計画的に、人家が少ないところであふれさせてしまう。意図的にあふれさせることで、大洪水を分散させ、要所を守る,という古来の治水戦略を復活させたのである。
そのしくみはこうだ。まず堤防の一部分をあらかじめ他の高さより2~3m低くしておく。川が増水して水位が上がってくると,この部分から田んぼへ水があふれでていく。いわゆる越流堤である。
この越流堤は,遊水地の下流部に作るため、田んぼに流れこむ水は回り水となってゆっくりと、上流側に向かってたまっていく。最大水深3m程度となるが、流れ込む水は上水(うわみず)なので、土砂は田んぼに入らず、万一入った場合は県が撤去する。川の水位が下がれば、遊水地に入った水も出て行く。県の予想では24時間程度で水が引くと見ている。その洪水調節能力は現存する刈谷田川ダムを上回るという。
では、この遊水地の田んぼは県が買い取るのか。刈谷田川遊水地は地役権方式をとった。
地役権(ちえきけん)とは、自己の土地の便益のため他人の土地を供させる権利のこと。河川(自己の土地)の流下能力の増加(便益)のために田んぼ(他人の土地)に川水をためる権利(供させる)。これが遊水地役権である。県は、地役権設定の対価として、地主に取引時価の35%を支払って、河川区域に組み入れるのだが、土地の所有権を買い取るのではない。地主はこれまで通り耕作地として利用できる。ただ洪水時川水が入ってくるのを受容しなければならないだけである。
ぼくは、この地役権方式の遊水地は、次の理由で、画期的な方法だと思っている。
巨大洪水対策は河道だけでは不可能で氾濫原管理を伴わざるを得ない。氾濫原管理とは,大洪水時のみ川になる土地利用を社会のしくみに取り込むことだ,とぼくは理解していて,そのためには「官地か民地か」の二分法は硬すぎる。地役権遊水地がいい点は、私的利用をする私有地でありながら同時に公共用地(河川区域)でもある,という柔軟さにある。たいへんなのは行政と住民の協働が不可欠で、行政も住民も意識変革をせまられる点だろう。だが縦割り行政の壁を越えて流域主義治水(総合治水)を実現するためには、このような実践を通した互いの意識変革こそが大きな役割を果たすと思うのだ。
県の職員は、地主たちに「洪水を遊ばせる」ことの大切さを説いて回ったという。破堤という被害体験もプラスに作用しておおむね理解を得ているようであるが,「これからも試行錯誤の連続です」と苦労は絶えないようである。だがその苦労は、時代を前に進める価値ある苦労である。大きな災害を出した刈谷田川であるがゆえに挑戦できる苦労である。どうかがんばっていいモデルを作ってほしい。刈谷田川遊水地はぜひ成功させてもらいたい。
このように,新潟県は「7.13水害」の第一の教訓「堤防をあふれる洪水は必ずくる」を,遊水地の創設に生かしたのだが,では第二の教訓「あふれても壊れない堤防にすべき」はどう生かされたのか。(続く)
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8月18日(金)雨 祝!アカメ発見 吉野川水系で初
http://himeno.exblog.jp/5511787/
2006-08-19T01:39:00+09:00
2006-08-19T02:10:01+09:00
2006-08-19T01:39:44+09:00
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アカメという謎の巨大魚をご存じだろうか。成長すると1.5m30kgを超える日本最大のフィッシュイーターで,四万十川など太平洋側の川の汽水域をすみかとしており,徳島県では浅川湾につながる海老が池(汽水湖)のアカメが有名だった。それが,吉野川河口(支流鮎喰川の合流点)で初めて捕獲されたのだ。その徳島新聞記事を見て胸がときめいたのはぼくだけではあるまい。
汽水域というのは不思議なところだ。川でありながらその流れはある時は海に向かい,ある時は山に向かう。海水と淡水が混じり合い,海の魚も川の魚もともに生息できる場所。海であるとともに川であることがゆるされる場所。太古,人類の祖先たちが大地という新天地を目指したのも,ここからだった。茫洋としてとらえどころがなく,ただ豊かさにみちている。
「吉野川にはなあ,1mのチヌがおるんよ。わしは潜って見たんじゃ」という川漁師の矢田さんのほら話も,そら吉野川の河口ならおるかもしらんなあ,と思わせてしまうのが汽水域というものである。ここに1.5mのアカメが,ルビー色の目を光らせて悠然と泳ぐ姿を想像するだけでもう胸が躍る。
こんな汽水域が26万都市の中にあることが,奇跡のような気がする。]]>
8月9日(水)晴 吉野川の汽水域
http://himeno.exblog.jp/5453108/
2006-08-10T02:00:00+09:00
2006-08-19T02:02:57+09:00
2006-08-10T02:00:46+09:00
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画面は夕方の第十堰へ飛ぶ。きょうの第十堰は力強く水が越流していて,第十堰は流れの中に隠れ川底となりきっている。堰上ではいたるところコサギが獲物をねらっている。第十堰は水の中でありすべてが魚道であるから,川の先住民たるお魚に「ここを通りなさい」という人工魚道のあつかましさがない。見ていると気持ちが和む。
カメラマンは,真水と塩水がまじりあう汽水域特有の現象である水中の水のゆらぎ(ウイスキーの水割りや砂糖水をつくったときにゆらゆらと透明のカーテンが揺れているような現象)を見せたかったらしい。
その周りの水中にはキビレやスズキの子やハゼの仲間などがいっぱい泳いでいる。第十堰が石積みで漏れる構造(透過構造)であるが故に,生命のゆりかごと言われる吉野川の汽水域が250年保たれてきたのだ。
惜しかったのは,第十堰に居着いているはずのアユの映像がなかったことだ。第十堰には今なお青石の基礎石が無数に積まれており,ここにアユが縄張りを張っている。海から150キロの旅をする豪のアユがいるかと思えば,わずか14キロで旅をやめてここで一生を過ごす(といってもアユは年魚なのでわずか半年間)落ちこぼれ的ずぼらアユもいる。アユにもさまざまな個性がありそれぞれの人生があるのだ。ぼくは,そんなずぼらアユを遠来の客に見せたくて,第十堰を案内するときは,必ず裸足になってもらって,ズボンをまくりあげて,このアユたちの縄張りに行く。国交省が作ったどこのダムにこんな光景があるだろうか。
NHKは,いま今後30年先の吉野川の姿が決められようとしていることを知って,この特集を組んだのだろうか。国交省の河川整備計画素案について,5日の住民意見を聴く会の報道記事に徳島新聞は「環境保全目標明示を 吉野川整備計画、下流域住民が要望 」という見出しを付けた。6月27日開かれた学識者会議でも,専門家委員から同様の強い意見が出ていた。素案における環境保全計画を一度見ていただきたい。すべて「努める」のオンパレードである。行政が「努める」という用語を使うときは,なにもしない,という意味だというが,具体的な環境保全目標が設定されていないのだ。「昭和30~40年代の吉野川の環境を回復する」こんな環境目標を盛り込んでもらいたい。一瞬で、住民は整備計画の目標を理解し,整備計画は「官のもの」から「流域住民のもの」へと変わっていくに違いない。
ニュースは下流側から第十堰を映していた。第十堰の向こうの広々とした川面が夕日に染まり,お日様はやがて吉野川の川面に隠れていく。ぼくが会議に出かけようと事務所を出たらでっかい太陽が西の空に沈もうとしていた。吉野川大橋を渡る頃には,こんどは満月が河口からのぼり始めていた。これまたでっかくて見事な満月だ。この風景が大河吉野川の風景なのである。今日,何人の人がこのぜいたくなひとときを味わっただろうか。
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8月6日(日)晴 住民の意見を聴く会は「吉野川方式」になるのか
http://himeno.exblog.jp/5431376/
2006-08-07T01:56:00+09:00
2006-08-09T15:50:35+09:00
2006-08-07T01:56:37+09:00
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吉野川の計画作りの手法は、住民参加のしくみの一環としてここ数年全国的にほぼ定着したかに見えた「流域委員会」を設置せずに、まず国交省が河川整備計画の素案を作成し、これについて「意見聴取の会」を複数回開催して学識者、流域住民、市町村長から意見を聴き、素案に修正を加えながら河川整備計画を策定する、というものである。
この方針は今年5月に発表され、6月にほ計画素案が発表され、7月から住民の意見を聴く会が4回、市町村長の意見を聴く会が3回、学識者会議が1回開かれてきて、昨日の徳島市と今日の四国中央市(愛媛県)で全ての会が一通り開かれたことになる。
国交省は、今年度中にこれらの会を3回ほど行い、素案の修正を繰り返して、計画を作る予定だとしている。そこでぼくは「30年先の吉野川の姿を決めるのだから徹底的な議論をすべきではないか」と質問し、国交省四国地整の舘課長は「回数も時間も制限しない」と答えた。
だがこの日、住民に与えられた時間は1時間あまりしかなく、司会者は、質問を一人2点に制限して国交省との質疑応答をおこなったが、それでも発言できたのは109人の参加者中わずか12人でしかなかった。特筆すべきはほとんどの住民の意見が、地域陳情型ではなかったことである。地域利害からではなく、新河川法の理念に沿った格調高い意見がつぎつぎと続くものだから「レベルの高い会でしたね」と記者さんたちが驚いた。
これに対し国交省の回答は、ほとんど「お聞きしました」に終始し、都合の悪いいくつかの質問では答えず、はぐらかすという対応が目立ち、司会者から「それは違うでしょう」と指摘される場面さえあった。要するに意見は聴くだけで,議論をおこなう誠実な姿勢は見られず,これでは欠陥の多い素案に少々手を入れただけで終わってしまうのではないか,と感じた人が多かったはずである。
ひどいのは,いくら聞いても第十堰の検討方針の説明はしなかったことである。だが何度でも聞く。10年間第十堰は吉野川治水上最大の危険個所と言ってきたのは誰なのか。そんなに危険なら6年間も放置したうえ肝心の整備計画作りに先送りできるはずがない。先送りの理由が2年も前の洪水の基礎的な解析が出来ていないからとは恐れ入る。なぜ第十堰以外が解析できているのに第十堰周辺だけできていないのか。県民を馬鹿にするにもほどがある。
この日,舘課長は「抜本的な第十堰の検討とは30年スパンの問題であり,今回の整備計画に必要な作業である」と答えた。ならば国交省には最低限次の義務がある。まず6年間放置し今回先送りしても第十堰は安全であることを県民の前に説明することである。つぎに現在何を調査しているのか,今後のスケジュールはどうなっているのかを説明することである。これらは河川整備計画の進め方の前提として不可欠の説明である。
この説明を求めた質問に舘課長は答えなかったが,この日の司会をしたNPO法人コモンズの沢田さんは,再質問を禁止した。沢田さんはそつのない見事な司会ぶりであったが,この質問は河川整備計画の進め方の問題であり,いわばボタンの掛け違いが起こるかどうかの大事な問題であるのに,これを禁止したのは疑問と言わざるを得ない。
コモンズは,国交省の委託を受けて,中立・独立の機関として,意見を聴く会の進行方針を決定し運営する役割を担っているのであるから,整備計画に「流域住民の意見を適切に反映させる」ためには,河川管理者が一方的に意見聴取する場ではなく,お互いに議論を積み上げ理解を深めていく場となるよう,会を進行されるべきであろう。
そのためには,今回(1時間しかとってなくて、3回をめどというのにこだわっているように見えた)はともかくとしても,次回からは十分な議論ができる時間を確保することが絶対的に必要であり,言えないひとは用紙に書いて出してほしいなど軽々しくいうべきではない。議論を効率的にかつ中途半端にならないようテーマごとに議論をする場など複合的な運営形態も必要となろう。なによりまずはきのうの意見質問について言い放し聞きっぱなしにならないようデータに基づいた国交省の説明を求めてもらいたい。
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環境保全目標明示を 吉野川整備計画、下流域住民が要望 (8月6日付徳島新聞)
吉野川水系河川整備計画の策定に向け、国土交通省四国地方整備局は五日、吉野川下流域を対象にした「吉野川流域住民の意見を聞く会」を徳島市内の県建設センターで開いた。
具体的な環境保全目標や森林整備に関する記述を計画に盛り込むべきだとの意見のほか、流域意見を計画に反映させる過程に住民参加を求める声が上がった。
百五十人の定員に対し、住民百九人が参加。国交省側が会の運営ルールや整備計画素案の内容を説明した後、一時間余りにわたり、参加者が意見や質問を述べた。
治水、環境面では「森林が治水、水質に果たしている役割は大きい」と森林整備の重要性を強調する意見が出され、河川改修にとどまらず流域全体で治水を考えるため、農林水産省など他省庁と連携した取り組みを望む発言もあった。
また自然の状態に近い護岸整備をはじめ、治水と環境保全の調和や、絶滅危惧(きぐ)種の保護で環境保全目標の明示を求める声も出された。
利水では「新たな渇水対策を具体的に示していない」との批判や、早明浦ダムなどの開発を通じた分水の歴史や分水量の内訳を計画に明示してほしいとの要望も。環境学習など住民の河川空間利用を促す国の施策展開に関しては「理念だけでなく、日常から住民との関係を築く行動や場づくりを明記すべきだ」との指摘もあった。
一方、整備計画づくりの進め方に対し「住民意見を聞いても意見反映の過程を国交省が一元的に握っていては住民参加といえない」などとする不満が目立ち、住民参加で合意形成を図る流域委員会の設置や意見を聞く会の回数、時間をできる限り多く取るべきだとの提言も出た。
このほか、今回の吉野川全体の整備計画づくりと分けて検討される抜本的な第十堰(ぜき)対策のあり方に関し「先送りし続けるのは河川管理者として無責任だ」との批判も。同整備局の舘健一郎河川計画課長は、抜本的な第十堰対策をいつから検討するかは明言しなかったが「第十堰対策も今回の整備計画と同様の視野でやっていく」と述べ、今後三十年間を計画対象期間とする形で検討を進める考えを示した。
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8月4日(金)晴 あす吉野川流域住民の意見を聴く会
http://himeno.exblog.jp/5416826/
2006-08-04T23:34:00+09:00
2006-08-05T09:30:35+09:00
2006-08-04T23:34:21+09:00
himenom
未分類
なぜそんなに,ばたばたしているかというと,あすは徳島市内で,国交省の「吉野川流域住民の意見を聴く会」というのがあるからである。上中下流の6会場でおこなう催しで,あすで5回目になる。なんのためかというと,国交省が今後30年間吉野川に手をいれる計画を作るにあたって「住民の意見を(一応)聴取しておこう」と考えたからである。「一応」とぼくが書き添えたわけは,住民参加の建前上こんな場も作らざるをえない,という国交省の態度が見え見えだからである。たとえば,国交省の計画素案は印刷物にさえなっていない。見たい人はHPで見ればよいという理由でもともと刷る予定はなかったというからひどい。ほとんどの住民は目にすることがないに違いない。むこう30年の吉野川の姿を決めるのにこれでいいのだろうか。
この会の性格を最も現しているのが「聴取」の一言である。吉野川の整備計画について住民と「議論する」のではなく住民から「意見聴取」をしたいということである。「議論の会」でなく「聴取の会」にしたかったのだ。国交省が,全国の一級河川109水系のうち約半数で設置し,ほぼ定着しかかった流域委員会を,今回あえて設置しなかった最大の理由はこの点にあるといってよい。国交省は住民と話し合い議論をしながら計画を作る,という方式はしたくないということである。そのために,この方式の発表は,最後の最後まで,秘密裏に進められた。なぜそうしたのか,国交省はいまなおまともに説明しない。
権限を持つ国から,地域ごとに分けて「意見を聴く」と言われれば,「いつも地元がお世話になっております。さらにお願いできますならわが地域に○○対策をどうかよろしく」の陳情合戦になっても不思議ではない。首長の意見を聴く会がまさにそうだった。過去4回の住民の意見を聴く会もそれに近い。国交省が力を入れなければいけないのは,住民に地域エゴを競わせるのではなく,子や孫に残したい大局的な視野で,住民から知恵を出してもらうことではないのだろうか。あすの会を「住民が陳情する会」にしてはいけない。
5日(土)午後2時~5時 徳島県建設センター(徳島市富田浜2-10)へどうぞ。
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7月31日(月)晴 「人は足元が暗くなる前に故郷へ帰るものだ」
http://himeno.exblog.jp/5390166/
2006-08-01T02:34:00+09:00
2006-08-01T23:25:43+09:00
2006-08-01T02:34:46+09:00
himenom
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1997年,沙流川に建設された二風谷ダムを見ておきたかった。アイヌ初の国会議員となった萱野 茂(かやの しげる)さんの資料館も見ておきたかった。萱野さんは,議員時代に一度徳島に来られたとき,どうしても第十堰に行きたい,と会合を抜け出してこられ案内したことがある。今年5月79歳でなくなられた。
その萱野さんが反対し続けたのが,二風谷ダムである。このダムは,高度成長期にアジア最大規模の工業地帯を苫小牧東部地区に作る構想(苫東開発)のための工業用水調達のダムとして計画され,その後苫東開発が破綻すると,こんどは治水利水発電など多目的ダムに目的を変えて,1997年強引に建設された。
広々としたダム湖畔には展望台や観光用船着き場があり,公園も作られているが,フェスティバルの期間中で,しかも日曜日であるにもかかわらず,客はだれもいなかった。水は濁っている。右岸に2m幅の魚道があり,大きなカンバンがかかっているので,30分ほど見ていたが,上っている魚は一匹もいなかった。
ダム近くの民宿二風谷荘の宿泊客はぼく一人である。女将さんが「今夜は身内の通夜なので十分なお世話ができません」といいながら,ストーブのスイッチを入れた。雨の日は夏でも入れるのだという。話しているうち「ワジンが」「ワジンが」という言葉に驚いて「アイヌは今も『倭人』という言い方をするのですか」と聞いたら,そうだという。ぼくは自分の無知に思わず言葉に詰まった。昨年来た修学旅行の女子高生たちは「えっ,アイヌもテレビ見るんだ!」と驚いたそうである。なんという非常識,と一瞬あきれたが,だがおまえも五十歩百歩ではないのか,とすぐ我が身に跳ね返る。ぼくは恥ずかしかった。。
女将さんは萱野さんの弟の奥さんである。ぼくが吉野川で何をしているか知った女将さんは,ダムが出来る前の沙流川がどんなに美しかったか,語り始めた。そしてヒグマに出会った体験。彼女の目の前で小道を横切った熊は,彼女に気づき振り返る。彼女はその熊の目が忘れられない。「熊の目はほんとに小さかったよ。」しばらく熊と見つめ合った。不思議だったのは「熊といることが,ちっとも怖くなかった」こと。
「不思議だよねえ」と彼女は夢を思い出すように話してくれた。萱野さんが電話をかけてきて「その熊はね,カムイ(神様)だったんだよ」と言ったそうだ。
ゆったりと語る彼女は誇らしげで,ぼくは子どものように話に引き込まれた。
萱野さんはユーモアがありましたよね,とぼくは水を向けた。
「ええ,義兄さんは死ぬ直前まで人を喜ばせようと冗談をいう人でした」と言って,「もうあんな人は二度と出ない」と寂しそうな顔をした。
「日本にも大和民族以外の民族がいることを知って欲しい」と,委員会において史上初のアイヌ語による質問を行った萱野さんは,念願のアイヌ文化振興法を成立させたあと,「人(狩猟民族)は足元が暗くなる前に故郷へ帰るものだ」という言葉を残して,一期限りで国政から引退した。
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7月30日(日)晴 「関寛斎を知っていますか」
http://himeno.exblog.jp/5381365/
2006-07-31T00:03:00+09:00
2006-08-02T12:24:31+09:00
2006-07-31T00:03:18+09:00
himenom
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今回,4日間も徳島を空けたのは,酪農学園大学の特別講義のためだった。というのは半分うそで,2日間はたしかにそうなのだが,あとの2日間は別のところにいた。
十勝川の上流に足寄郡陸別町という町がある。山を越えたら網走で,その先は知床半島,その向こうは国後島である。冬はー30度まで下がり日本で最も寒い町として有名だが,そのくせ内陸盆地のため夏は暑い。陸別というのはアイヌ語で「危険で高い川」の意味で,北海道でも最も開拓の困難だったところだったという。
この町に行ったのは,関寛斎が北海道開拓のため入植したところだと知ったからである。関寛斎は,蜂須賀藩のご典医で,幕末期の日本で屈指の外科医だったが,戊辰戦争で功を上げながら明治政府への栄達の道を断り,士族の身分も捨てて町医者となった。金持ちからはしっかりと診療費をとり,貧乏人からは一切金を取らなかったという。
それだけでも並みの人物ではないのだが,驚くのは72歳になってから北海道開拓を志し,82歳で自ら命を絶つまで北海道の原野に身を置いたことである。寛斎の夢は,自らの開拓農場から自作農を育成し,トルストイの理想村を実現することであったという。
陸別町には町立の関寛斎資料館がある。(写真は道の駅オーロラタウン。資料館はこの中にある。)上品で,媚びるところがなく,寛斎の志を伝えようとする,誠実な設計思想が感じられてすばらしい。一つ一つの資料が意味を持ってつながっているから,いつまでいても心地よく飽きさせることがない。入館料は300円である。平成5年開館というから13年目だ。わずか3000人の陸別町がよくぞここまで、と舌を巻いた。
一方,寛斎の人生で39年間と最も長く過ごした徳島には銅像しかない。司馬遼太郎は,この人が好きで「街道を行くー阿波紀行」のなかで,寛斎は仁者で,阿波第一等の人だと述べている。
司馬さんは,同じ徳島の北海道開拓の原因となった稲田騒動のことを「これほど愚劣な争いも珍しい」と切り捨て,その反動で思い出したのが寛斎だったらしく,わざわざ「関寛斎を知っていますか」と(徳島の)読者に問いかけている。しかしその徳島では、この偉大な先達は今ほとんど忘れられているではないか,と繰り返し書いている。少しあきれ気味の司馬さんの顔が浮かぶようである。
「寛斎にとって,徳島はどうだったんでしょうね」
ぼくは,陸別町の郷土史家,斎藤省三さんに聞いた。斎藤さんは関寛斎資料館設計の中心人物で,週刊「街道を行く」の関寛斎を執筆された。おそらく寛斎研究の第一人者であろうが,こちらが恐縮するほど謙虚でやさしい。斎藤さんは徳島から来たぼくを気遣ってか「寛斎は徳島のことを悪く言ったことはありませんでした。きっと徳島が好きだったと思いますよ。」とぼくをなぐさめるように言った。
それにしても,寛斎ほど自らの人生を制御し尽くした人は少ないのではあるまいか。名をあげ財を成し何不自由ない生活を,72歳にしてうち捨てて,社会事業のために極寒の地に入植する。大きな時代の転換期に,自分の意志で人生の各舞台を選び,最後まで人生と格闘し,味わい尽くす。究極の自由人という感じか。徳島にもこんな人がいたのだなあ。]]>
7月12日(火)曇 腹が立った時には10数えよ
http://himeno.exblog.jp/5251198/
2006-07-13T01:33:00+09:00
2006-07-13T01:39:36+09:00
2006-07-13T01:33:51+09:00
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今日の朝日新聞の私の視点に「吉野川整備計画 官主導の動きに危機感」という,武田真一郎さん(成蹊大学法科大学院教授 行政法)の一文が載っている。武田さんは,このなかで「国土交通省は,10年前に戻ったような上意下達方式で計画を進めようとしている」と厳しく批判している。
最近の吉野川の動きを振り返ってみる。
◆住民・首長・識者別に意見 吉野川整備で国交省、第十堰以外検討(5月24日徳島新聞)
国土交通省四国地方整備局は二十三日、吉野川水系の河川整備計画策定に向け、「抜本的な第十堰(ぜき)対策」に先行して「それ以外の吉野川の河川整備」の検討に入る方針を示し、学識経験者と流域市町村長、流域住民の三者に分けて意見を聞く場を設けると発表した。
◆「意見反映できない」 吉野川整備国交省方針へ説明求める(6月2日徳島新聞)
NPO法人吉野川みんなの会と吉野川シンポジウム実行委員会は一日、吉野川水系の河川整備計画策定に向けた検討の進め方について国土交通省が発表した方針に対し、「流域の合意形成を図り、計画に住民意見を反映させる仕組みになっていない」として、方針の意図や方針決定過程に関する説明を求める申し入れ書を、四国地方整備局に送付した。
◆吉野川水系河川整備計画の素案を発表(6月24日徳島新聞)
国土交通省四国地方整備局は二十三日、吉野川水系河川整備計画の素案を発表した。計画期間を三十年とし、期間内に対応を目指す目標流量を、三十年に一度の洪水を想定した毎秒一万九千四百トン(阿波市岩津の基準点)に設定。昨秋策定の河川整備基本方針が最終目標に掲げる洪水流量(基本高水ピーク流量)二万四千トンを下回る値とした。また、目標流量を安全に流すために必要な無堤地区の堤防新設や漏水浸水対策の実施区間、内水対策などを盛り込んでいる。
◆内容が具体的でない 吉野川整備計画素案、意見踏まえ練り直し(6月28日徳島新聞)
国土交通省四国地方整備局は二十七日、第一回の吉野川学識者会議を徳島市内の阿波観光ホテルで開き、吉野川水系河川整備計画素案に対する流域意見の聴取を始めた。
◆治水対策を早急に 吉野川整備計画、美馬で4首長が要望(7月12日徳島新聞)
国土交通省四国地方整備局は十一日、吉野川水系河川整備計画素案に対する「第一回吉野川流域市町村長の意見を聞く会」を美馬市の美馬福祉センターで開いた。兼西(つるぎ)町長は治水の重要性を強調して「議論を長引かせず、少しでも早く対策の実施に入ってほしい」と述べた。(もうすこし具体的に再現すると,かれは「学識者や住民の議論のテーブルは早いとこ終止符を打ってプロの国交省でやってほしい」と言ったのだった)
国交省は,こういう「意見聴取の会」を,住民,学者,首長,それぞれ3回くらいやって,およそ1年くらいで整備計画をまとめたい意向だという。流域委員会はおかない。
注目河川の吉野川で流域委員会を設置しないというのは,97年改正河川法の欠陥を突いた,あっと驚く国交省の奇策であったが,考えてみればここ数年思い当たる節がいくつもあって,これは住民参加型行政を試行してきた国交省が先祖返りをしたということである。
おかげでこの1ヶ月いい精神修養をさせてもらった。
腹が立った時には10数えよ。ひどく腹の立ったときには100数えよ(ジェファーソン)
怒りは常に愚行に始まり悔恨に終わる(ピタゴラス)
怒りはあたかも猛火のようであって、火を消さなければ自分が焼け死んでしまう(佐藤一斎)]]>
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