刈谷田川の翌日、日本の近代治水史に名を残す大河津分水を見た。
ここでは、平成12年に信濃川本流川にある洗堰(吉野川で言えば第十樋門のようなもの)が全面改築され、平成15年からは放水路側にある可動堰の全面改築が始まっている。 「改築事業」の必要理由は、①老朽化 ②堤防洗掘 ③流下能力不足(せきあげ)。あれ、どこかで聞いたような・・・。そう「第十堰改築事業」の説明と、瓜二つなのであった。違うのは、可動堰のスタイル。円弧状に回転するラジアルゲートという新方式が採用されたのは、第十堰問題に学んだためと思われる。 この大河津可動堰と第十堰という2つの堰は,玄人筋では,歴史的構造物の改築という点で共通点を見る向きもあるかもしれないが,ぼくは決定的に違うと思う。大河津可動堰は大正11年近代技術の粋を集めて作られた生粋の可動堰,第十堰はその170年も前の宝暦2年日本の河川伝統技術の粋を集めて生まれた石積み堰。基本思想が大きく違うのだ。 大河津分水は山を切り裂き地形を激変させた人工放水路だったが、吉野川はもともとあった別宮川に放水路としての機能を持たせたにすぎない。大河津可動堰は全面的水制御を理想とするが、第十堰は川への最小限の関与を良しとする。結果、第十堰は254年たってなお健在だが、大河津可動堰はわずか70年で老朽化した。維持管理は第十堰が年間数千万円,大河津分水施設施設はその数十倍であろう。大河津分水によって新潟平野は、洪水の悩みから解放され、屈指の米作地帯となったが,第十堰を可動堰化することによって吉野川流域の住民が得るものはなにもない。 大河津分水を見た後、足をのばしたいところがあった。良寛さんの生誕地、出雲崎である。 「災害に逢う時節には、災害に逢うがよく候。・・・是はこれ災害をのがるる妙法にて候」 良寛さんの禅僧らしいこの言葉を,ぼくは 大熊孝さんの名著「洪水と治水の河川史」(平凡社)で初めて知った。14年前の暑い日だった 。 大河津分水から日本海へ抜ける途中、偶然,国上山「五合庵」の矢印を見つけた。貞心尼が通った良寛さんの庵だ。寄ってみたかったが、きっといつか来るような気がして、結局寄るのはやめにした。
by himenom
| 2006-09-26 19:41
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