4月1日(土)曇  ギョドウと牛丼


「ギョドウ」・・「ギョドウ」
ぽかぽかの夜行バスの中,後ろの席の若者がぼそぼそとなにか話している。
適度のビールで夢うつつのぼくはふと我に返った。
「ギョドウ」・・「ヨシノガワ」・・
「ヨシノガワ」・・「ギョドウ」・・
「ヨシノガワのギョドウ」
ほう,吉野川の魚道の話か。奇特な若者がいるものだなあ。
そういえば今日は「川の学校スタッフ研修」の初日だったなあ。
振り返って声をかけようと思ったとき,
こんどははっきりと聞こえた。
「だから吉野家の牛丼はね」
かれらは延々と牛丼の話をしていたのだった。
「吉野川の魚道」ではなかったのだ。
ぼくは苦笑した。
牛丼ならぼくは「すき家」である。
この会社ゼンショーは,政府がアメリカの圧力に屈して牛肉の輸入を再開したときも,会社独自の調査チームをアメリカに派遣して,安全に問題あるので我が社は使わないと宣言した。気骨があるではないか。
マネーゲームの対極にあるこういう商売人のポリシーはうれしいものだ。
残念ながらこのお店,まだ徳島では見かけない。
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# by himenom | 2006-04-02 01:43

2月28日(火)晴 岩国の住民投票

 気ぜわしい毎日が続いてブログの更新ができない。ここ2~3日は自己破産の手続きやら個人再生の手続きやらで毎日夜なべである。きょうも確定申告の帳簿整理でいいかげん頭がくらくらしていたら,娘のようにかわいい川ガキから「大学合格しました」と久しぶりのメールが届いた。ついうれしくなって帳簿整理は中断しパソコンに向かってしまった。
b0050788_371116.jpg 18日岩国住民投票を成功させる会から勉強会のお誘いで岩国へ行った。米軍再編に伴い,岩国へ空母艦載機57機が移設されることの是非を問う住民投票が3月12日岩国市で実施されるのである。ここは常設型住民投票条例をもつ進んだ町であるが,投票率50%を切ると投票が無効になるという悪名高い50%条項が含まれているため,投票率が最大の攻防戦となるのは間違いない。住民投票反対派は必ずボイコット運動を仕掛けてくるからである。今日の朝日新聞は,艦載機移設「反対」71% という住民投票前の世論調査結果を載せている。艦載機反対の民意は圧倒的である。だがこの記事はおそらくボイコット運動を加速させるであろう。これからが岩国市民の正念場となる。だが悲観する必要はまったくない。その理由はこうだ。ふるさとの将来に対する住民の直接の意思表示は根元的でおもいものだ。理屈抜きに誰からも一目おかれる。それは相手が国であろうが変わりはない。ふるさとには千年二千年のひとと自然の営みが、愛憎の記憶とともに詰まっているので,国とはいえ無視することはできないのだ。かといって下手にさわれば祟られる。中央集権思考にとってはまことに始末が悪いのである。
 「住民」という存在の重さと強さはこの一点にあるといってよく,住民投票の本質もまたここに凝縮されている。それはテーマに賛成か反対かという枠組みとは違う新たな枠組み,住民自身で町の将来を考えるべきか否かという新たな枠組みが生まれる,ということである。それは強い共感を呼ぶ。住民たちがふるさとの未来を真剣に考えて一票を投ずるのをみて,だれが軽々しく批判できるだろうか。
 ボイコット運動はそれを否定しようという運動である。やるならやってもらえばいい。徳島がそうだったように,住民投票運動が純粋でありさえすれば,ボイコット運動はやればやるほどその卑劣さが市民に伝わっていくものである。卑劣であればあるほど市民のプライドは目覚める。目先でなく将来を考える。住民は学習し民度は確実に一段上がる。それは必ず投票率に跳ね返ってくるものだ。
b0050788_37536.jpg 住民投票は政治の世界にあるが,それは従来の政治に収まらない政治である。純粋であるほどいい。住民投票は賛成運動や反対運動のために利用しようという下心がでれば,とたんに神通力を失うと考えたほうがよい。3月12日,岩国市民がこの町に住んでいてよかったと誇りに思えるようないい日になってほしいと思う。
 
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# by himenom | 2006-03-01 03:09

2月12日(日)小雪  第十堰問題は終わっていない

可動堰計画はなくなったと感じている人は多い。だが第十堰問題は終わっていない。それは昨年霞ヶ関の基本方針策定の過程で明らかになった。審議会委員の福岡氏,近藤氏の強硬意見は,河川局周辺のある勢力を代弁したものだ。飯泉知事も,自分ががんばったからこそ玉虫色の表現まで引き戻せたのだ,とコメントしている。決して可動堰推進勢力がなくなったわけではないのだ。力関係が変わったにすぎない,と考えるべきなのだ。公共予算のぶんどり合戦はどんなにパイが小さくなっても仕組みが変わらない限り続いていくこの国の悲しい「サガ」である。このことを忘れてはいけない。

それは県内状況をみれば一目瞭然だ。考えてもらいたい。なぜ可動堰反対が公約の飯泉知事はこの問題にこんなにびくびくしているのか。なぜ県内唯一の可動堰受け入れ団体である2市6町の首長で構成される「第十堰改築推進期成同盟会」はいまも解散せずに存続しているのか。なぜ最近わざわざ可動堰推進を目的とするNPO法人が認可されたのか。すべて可動堰計画の根っこがまだあるからである。これらに関係する人びとは,公共事業がここまでくるまでどんなに大変かを知っており,たとえ腐りかけた根っこであっても,それがいかに貴重な宝物かを知っているからである。その力を甘く見てはいけない。

では計画が白紙になって5年,変わったものは何か。まず政治的力関係である。吉野川下流で可動堰容認を争点にして当選できる候補者はいなくなった。次に新河川法の理念である。吉野川河川整備基本方針は開発優先のダム建設路線の転換を掲げた。これが第十堰をめぐるせめぎあいの新たな条件である。住民はその有利な条件を使って戦わなければいけないのである。勘違いしてはいけない。変わったのは不利な条件が有利な条件に変わったことであって,可動堰がなくなったのでは決してないのである。もし住民がもの言わなくなり,条件さえそろえば計画は再浮上する。だから住民は動かなければいけない。めざすのは勝ち負けを超えて大方から祝福される第十堰保全計画である。

そしてせめぎあいの舞台は2つ。いうまでもなく一つは河川整備計画のための流域委員会である。もう一つはおやっと思うかもしれないが,徳島県なのである。なぜ徳島県なのか。整備計画づくりにおいて知事は重い役割を持つ。とりわけ飯泉知事は全国の知事で唯一河川審議会に出席して「可動堰以外」という異例の要望をしたのだ。知事は重い荷物を背負った気持ちの筈である。蔵治先生たちの河川整備計画への提言について記者からコメントを求められた知事が,「流域委員に首長を入れなくて誰が責任を取るのか」と思わず感情的と思える反応をしたのは,上述の事情を考えれば納得がいく。だが「可動堰はないと確信している」と言ってしまった知事は、自信を持ってちゃんとした役回りを果たしてもらわなければならない。さらに知事に自信を持たせる方法がある。県議会である。徳島市議会は可動堰推進決議を撤回したが、県議会はしていない。県議の出番である。こんなとき県議しかできないことがあるとつくづく思う。がんばってほしい。
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# by himenom | 2006-02-13 01:40

2月6日(月)雨 ふたつの「自ら」

 2週続けて森のシンポ。きのうは大阪で哲学者内山節さんのお話を聞いた。内山さんによると,西洋は「石の文化」日本は「木の文化」とよく言われるが,これは疑問だという。たしかに奈良時代には世界最古の保安林制度が作られ,武士がまだ田舎に住んでいた中世でも森の文化はあった。ところが江戸時代になると,武士階級という大量の消費者集団が都市に定着し様相が変わり始めた。武士の思想は儒学であり,自然を収奪する思想だったので,人と自然一体の思想に支えられた森の文化と対立する。江戸時代すでに都市と農村は別世界であった。西洋の直輸入で明治が生まれたのではなく,すでに武士のこの都市思想のなかに明治を生んだものはあったのだ,と内山さんはいうのである。

 一方村のくらしは百姓の自治で成り立っていた。武士は租税権を持つが,百姓社会には口をはさめなかった。村はそれぞれが自立して意思決定をおこない,その意思決定の原理は「自ら」であった。「自ら」にはふたつの読み方がある。「みずから」と「おのずから」である。意味も正反対に近い。なぜ「自ら」には,相反する二つの意味と読み方があるのだろうか。内山さんは,この二つにはもともと差異はなかったのだという。「自然」とは「しぜんにそうなる」「おのずとそうなる」ものである。だからひとびとは「おのずとそうなるのは何か」を感じ取ろうとし,その結論こそを「みずから」の意思とするのである。こういう自治のプロセスは内部のものにしかわからない。これが幕藩支配が及ばなかった理由である。自然から遊離した武士は身分制度と租税権で農村を支配したが,日本列島の広範な面で営まれる農村の自治は別の原理(森の文化)を持ち,面従腹背で武士の支配にしたたかに抵抗し続けた。この二重構造は江戸時代を通して変わることはなかった。

 だが近代明治国家は,廃仏毀釈を皮切りに,この絶妙な二重構造を破壊し,容赦なく国家の一元支配を列島全部に敷き詰めていく。ぼくは,内山さんのお話を聞きながら,新潟県大川郷で350年も続いてきた地域のサケ漁の話を思い出した。明治国家が「公益(国益)」のもとに進める漁業の中央集権化に対し,村人たちは「共益」という概念で伝統のサケ漁を生き残らせていくお話である。支配者たちにからめとられない村の自治のしたたかな知恵が,菅豊さんの「川は誰のものかー人と環境の民俗学」(吉川弘文館)にいきいきと書かれていておもしろい。
 日本のこの見事な自治の文化(森の文化)は,戦後の高度経済成長の時代にほぼ終わりを告げることになるのだが,内山さんは,だがそれからまもなくして,世界史的に一つの物語が終わり新しい物語が始まったという。終わったのは「歴史は常に発展する」という近代人の幻想の物語であり,新たに始まったのは人間の原点に返ろうという動きである。フランスではいったん10分の1まで激減した農村人口が1980年から上昇に転じ,いまや農民人口の3分の2は都市出身者となった。これが新たな時代の潮流である,と結んだ。
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# by himenom | 2006-02-07 00:38

2月3日(金)晴  「戒厳令の夜」

b0050788_22525143.jpg五木寛之こころの新書を,紀伊國屋書店でぱらぱらめくっていて,ふと目にとまったのが「戒厳令の夜」というタイトルだった。五木さんの代表作の一つだがまだ読んだことがなかった。気になってさっそく図書館から借りてきた。読み始めたらおもしろいので,一気に終わりまで読んでしまった。つい若いときのような読み方をしてしまったのは,借りてきた本が70年代という時代をそのまま連れてきたような気がしたせいでもある。石岡瑛子さんのデザインが秀逸だ。まず白黒写真を赤れんが色に着色した表紙(セピア色ではなくてなんとか色といっていたなあ)に惹かれふと裏返すと,裏表紙の内側には,五木さんが徳島出身の芥川賞候補作家佃実夫にこの本を郵送した茶封筒が貼り付けてあるではないか。 
タイトルページをめくると,真ん中に16ポイントの太ゴシックで

「その年,四人のパブロが死んだ」

とある。次のページにはパブロ・ピカソ,次にはパブロ・ネルーダ,その次はパブロ・カザルスと黒い縁取りのある写真が続く。そして偉大な芸術家たちの最後は,縁取りだけで真っ白の写真,20世紀最高の幻の画家ーパブロ・ロペスが・・・。と,ここまででぼくはもう石岡瑛子さんの術中に落ちてしまっていて,あるいは30年前の時代に心は逆戻りしていて,老いてなお鋭いピカソの眼光や,鳥の歌が聞こえてきそうなカザルスの写真や,茶色に変色したこれらのページの小さなシミまでつい見入ってしまうのである。
四人が死んだ「その年」とは1973年。日本の戦後高度成長終えんの年だ。ベトナム戦争が終結しアメリカは建国以来初の敗戦を経験した年でもある。ウオーターゲート事件,金大中事件,チリのクーデターなど闇社会の事件も相次いだ。「神田川」や「母に捧げるバラード」がヒットし,パルコ渋谷店やセブンイレブン1号店が生まれた。五木さんが「戒厳令の夜」を謹呈した佃さんは,この年「阿波自由党始末記」を書いていて,そしてぼくはこの年北九州筑豊からふらっと徳島に帰ってきたのだった。ぼくが筑豊を知ったのは,カッパブックスのベストセラー「にあんちゃん」を読んだ中学1年のときだが,大学に入って上野英信の「追われゆく坑夫たち」や土門拳の「筑豊のこどもたち」を見て,ますます気になる地域になっていた。日本最大の炭田地帯と国営八幡製鉄所を抱える筑豊北九州は,日本という国を近代国家に変貌させたその心臓部だった。頂点には石炭王麻生財閥(外務大臣麻生太郎は4代目)が君臨し,いつ死ぬかもしれない危険な地の底の仕事でよければ,ここにくれば前歴も問われずなんとか飯が食えた。あらゆる人間がここに吸い寄せられ,日本最大の吹きだまりとなった。何百年の伝統社会からはじかれあるいは脱出した人びとがやってきた。見ず知らずの人をすうっと受け入れるこの地の優しさにぼくは驚き感動したものだ。四国にはお接待の風習があるがこれとはかなり違う。この物語でも重要な舞台となる筑豊を、五木さんは心底好きだったようだ。ひょっとしたら五木さんはこの地を,縄文期にはじまる長い長い時間を,国家の枠組みの外で生き続けた漂白民たちの世界につながる入り口、だと感じていたのではあるまいか。物語の中で幻の天才画家パブロ・ロペスが描き続けたのはユーラシアの漂白民ジプシー。国家の論理に翻弄され続けるこのロペスの名画を守るのが,ほろびゆく日本の漂白民山人族(サンカ)と海人族(海部)。「国籍を捨て,四辺の海をすみかとする一つの自由な放浪共和国の民としてよみがえるのだ。その海人の仲間の資格は,ただ海に生き海を好む,ただそれだけなのだ。」
この物語のもう一つのテーマは老いである。
ぼくももう59歳になったためか,やたらそんな箇所にもひっかかるのである。
「老いというものが,肉体だけでなく,人びとの心をどんなふうに衰えさせていくか」と書かれるとぎくっとする。「しかし,彼はその老いに逆らって,最後の一瞬を燃え尽くして死んだ。」というのを見てほっとする。するとまた「人間は老いてゆく。老いてゆくとともに多くのものを失ってゆく。ただ自分でそれに気づいていないだけだ。」とでてくるので,やっぱり,と絶望的になる。  五木さんはこのときまだ40代のはずだよ。なんでこんなに老いを絶望しなければいけないんだよ。とぶつぶつ言っていると,五木さんは最後にこうとどめをさすのだ。16ポイントの太ゴシックで。

「1973年,四人の老いたパブロが死んだ」

あとがきに五木さんは「ただ,予感としてあるのは,今後,世界はまちがいなく「戒厳令の時代」に属するようになるだろう」と書いている。それから30年,作家の鋭い予感は,違う意味で深刻な時代を言い当てていたようだ。だが気になる問題は老いである。くるなくるな,しっしっ,あっちへいけ,まだまだ逆らうぞ,が正直な気持ちです。はい。
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# by himenom | 2006-02-03 23:04

1月29日(日)晴 緑のダム研究の最前線

焼き物で有名な瀬戸市で,暖かい小春日和の1日を過ごした。
「緑のダム研究の最前線」と題する東大愛知演習林のシンポジウムはなかなかおもしろかった。

「いかなる森林でも降った雨はいったん必ず土壌に浸透する。従って人工林の手入れをしても緑のダム効果の向上は期待できない。」国交省が金科玉条にしてきたこの定説の誤りはほぼあきらかになったのではないか。

まず,定説では発生しないはずの地表流が放置人工林で発生する事実が明らかにされた。それはなぜか。①定説の根拠とされたこれまでの浸透能調査方法は円筒管測定法と呼ばれるもので,実際よりも高い値がでてしまうこと③調査が行われた70年代前半は裸地化した人工林(放置人工林)はほとんどなかったこと,にあるのだという。

また森林に降った雨は,土砂降りのときほど蒸発が増えて,洪水を緩和しているが,そのわけは豪雨になるほど樹冠にあたって発生する水しぶきが増えこれが2~3m落ちる間に蒸発するためだ,というメカニズムにあったこと。

山地に降った雨が川に流れ出るとき,これまではほとんどが土の中から出てくると考えられてきたが,実は60%~90%が岩盤の中を通って出てきた水であるという。酸性雨を中和しているのも土ではなく岩盤だという。

最後に,人工のダムにはありえない緑のダムの優れた機能として「森林の土砂流出の抑制機能」が取り上げられた。川に流出する全土砂量の4分の1は表層土壌の浸食によるもので,天然性林やよく手入れされた人工林は森林荒廃流域に比べ土砂流出を食い止める効果が明らかに高いこと。
 
意欲的な研究発表を聞きながら,ここ数年森林の「緑のダム」の研究は着実に進んでいると実感した。シンポジウムには若い研究者がたくさん参加していたことがうれしかった。フライブルグはなぜ環境首都になったか,という今泉みね子さんのお話を思い出した。ぼくは彼らの目をみながら,市民の期待に応える研究者が高い評価を受ける時代がかならずきますからがんばって,とあいさつした。
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# by himenom | 2006-01-30 00:04

1月8日(日) 早とちり

たとふれば 独楽のはじける 如くなり 虚子
とだけ書かれた年賀状をいただいた。
達筆である。
だが差出人の名はない。

ぼくは考えこんだ。
考えざるをえないほどの達筆である。
だれがくれたのか。
どんな意味か。

そして,ついにわかった。
あの方に違いない,よし。
確信を持って礼状をだした。
句の解釈を添えて。

さっそく返事が来た。
「あいにくですが出しておりません」
見事な早とちりとなった。
やれやれ,今年もいろいろ起こりそうである。
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# by himenom | 2006-01-09 00:33

1月7日(土)晴 老先輩のやり残したこと

 年末に司法書士の先輩から送っていただいていた「戦後60年 旧満州東部戦跡を訪ねて」という本を読んだ。80歳になるその先輩は,憲兵として旧満州に配属されたが,翌年敗戦となり,厳しい逃避行の末,九死に一生を得て日本に帰国した体験を持つ。帰国後は裁判所書記官,司法書士をしながらも「やり残した」思いがずっとつきまとってきた。その思いが昭和60年中国残留孤児の支援活動に向かわせた。孤児一家を中国から引き取り,毎年のように満州に調査に行く精力的な活動が始まるのである。

 かれの「やり残した思い」とはなんだったのだろうか。本にはこんな文章が載っている。「ソ連参戦とともに軍主力は逃げ,無条件降伏後も,婦女子を中心とした開拓団が,一戦を交えたりしているのです。歴史上かつてこんな戦争があったでしょうか。」
 満州開拓団は,植民地経営のために内地から送り込まれた民間人の大量移民集団である。徳島県内だけで18団体が行ったという。日中戦争が勃発すると,こんどは16歳から19歳までの未成年まで投入されるようになる。全満州の開拓団は30万人,うち9万が未成年であった。

 この多くの子どもを含む30万人は,昭和19年ソ連軍参戦によって大混乱に陥り流浪する難民となってつぎつぎと倒れていく。かれらを保護すべき軍はいなかった。「満州遺棄作戦」これが大本営と関東軍の作戦だったからである。大量の中国残留孤児はここから生まれたものだ。戦争を行う国家と軍隊というものの冷酷は,国策として送り込んだ自国民であろうと,いつでも国策の名で遺棄できることである。

  このことに 「日本の国家は,全責任を問われなければならない筈である。」
にもかかわらず,いまなお孤児たちに取り合おうとしない,この国はいったいどうなっているのであろう。帰国後,まじめに実直に平和な日本で生活を送りながら,老先輩はいたたまれなかったのに違いない。 もう10年以上お目に掛かっていない老先輩の,穏和な仕草を思い出しながら心をこめて,お元気で長生きしてください,と礼状を書いた。
 
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# by himenom | 2006-01-08 00:16

1月5日(木)小雪 ながいながい風

ふたたびは わたらない橋の ながいながい風 

山頭火ただ一つの吉野川の句ではあるまいか。
時代が急速に戦争へ走り出す昭和14年、
この句を徳島に残した山頭火は, 翌年58歳で死ぬ。

  ふたたびは わたらない橋の ながいながい風

おとどしの春がすぎて、ときどきこの句を思い出す。
わたってしまった橋のその先に吹く風は、
追い風なのか、それとも向かい風。いっそ風まかせ。

すでに山頭火と同じ時間を使い切ってしまったが、
けれどまだすることが残っているので、
「コロリ往生」はちょっと待ってな、
と山頭火のまねをしてぶつぶつ言ってみた。
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# by himenom | 2006-01-06 00:24

今年の目標

新年おめでとうございます。
12月の寒波から一転、意外と暖かいお正月でした。
ゆっくり過ごされたことでしょうね。

ぼくはいつものことですが、毎日事務所で資料整理に追われました。
手間のかかりそうな書類ほど、処理ができないまま積ん読状態なので、
毎年この時期になると、反省しながら整理をするのです。

今年もっとも恐縮しながら、お詫びとともにお手紙の返事を書いたのが、
なんと真夏に、吉野川渇水についていただいたご意見への返事でした。
さすがのぼくも、なんぼなんでもこれではいかん、と真剣に反省し、

よし今年は、できる限りすぐ処理をしよう、と決めました。
後回しにしないで、まず必ず返事をする。
一期一会のつもりで、誠意をもって人にあたる。
これを今年の目標にしようと思います。

まず年賀状の返事を今日一日かけて書き上げました。
こんな賀状がありました。
「犬の遠吠え。変調を来している世界では、正気で元気で、
しかも楽しげに吠え続ける気力が大事です。今年もよろしく」

正気で 元気で 楽しげに 吠え続ける 気力
なによりも「続ける気力」
原点を思い出させてくれた年賀状でした。
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# by himenom | 2006-01-03 21:54

12月21日(水)晴 四国地方整備局と意見交換

高松の四国地方整備局で河川計画課長と約1時間の意見交換をした。次の3点を確認した。

①河川局長の7日の発言通りに取り組むこと
②今後も事前の話し合いに応じること
③整備計画の議論に際しては、第十堰の文化的価値やせき上げの再計算、森林の保水力 も検討対象になること 

四国地整は、基本的に当方の意見を聞くだけだったが、年内に予定されていた徳島県との連絡調整会議が急遽延期されたことから、当初の原案が見直されている可能性が高いと見た。この日の私たちの意見がどう反映されるか、引き続きしっかりと注目していかなければ。

        提出した「私たちの意見と要望」より(抜粋)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
12月7日河川局長との懇談結果について

渡辺和足河川局長から新河川法による河川事業について説明を受け、別紙の「私たちの意見と要望」について、有意義な意見交換をさせて頂き、吉野川における新たな河川行政への転換を予感させる示唆に富んだご回答も頂いた。

以下は河川局長の発言要旨である。(文責:当会)

①第十堰を治水だけで論じることはしない。第十堰のもつ文化的価値と治水問題を総合的に考える。
②「第十堰の治水上の支障」の意味から「ハイウオータを超えるかどうかの議論はのけて」いろんな選択肢を考える。
③基本高水24000m3は整備計画で議論する目標ではない。森林の保水力を全て否定しないが森林で全て代替もできない。森林と一体で河川整備をする。
④整備計画作りのキーワードは2つ。一つは「住民意見の反映」もう一つは「徹底した情報公開と住民参加」である。
⑤流域委は全て整備局マターである。私が言えるのは考え方だ。私からも伝えるので具体は地方整備局と話してください。

とりわけ河川整備計画作りにおいて2つのキーワードを強調されたのが印象深い。私たちも心からこれに賛同する。
総論と各論が相反したダム審の不幸を繰り返してはならない。まず流域委員会の設置において、ダム審の教訓を生かした新しい吉野川方式を打ち立てるべきである。そのためであれば私たちは協力を惜しまない。

河川整備計画づくりに向けての提言と要望

1 吉野川の流域委員会を作るにあたっては,行政住民が知恵を出し合い,過去の経験を生かして,全国に対しても将来世代に対しも誇れるような吉野川方式を編み出してもらいたい。

2 そのためには,まずボタンをかけるときがもっとも大事である。1995年設置されたダム審の人選や運営に対する反省をふまえ,流域住民の意見を反映できるよう特に留意することが必要である。住民参加は「形だけの応答」に終わるのではなく「意味ある応答」でなければならない。

3 2001年,国交省徳島事務所の「明日の吉野川と市民参加のあり方を考える懇談会」が,最終提言で「計画づくりに入る前に,事業の目的,事業スケジュール,市民参加や合意形成の方法・ルールについて十分議論し,市民,行政が互いに納得して計画づくりを進めることが重要です」と述べているように,流域委員会に先立つ準備会の設置が必要と考える。

4 同最終提言は「行政と市民,流域各地域の間に立って中立的に計画をまとめる組織として,行政からは独立した検討委員会として位置づけるべきだと思います」と述べている。したがって、上記の準備会および流域委員会の設置に際しては,実効的な合意形成を達成するために、独立性の確保が必要である。

5 さらに同最終提言は、委員の選定方法につき「委員の構成や選考基準、選考過程等に関する市民意見を集約し、できるだけ多くの人が納得のできる選定方法を考える。」として、公正な選定を行うための選定委員会の設置を提唱している。実効的な合意形成を達成するうえで、多くの審議会が抱える最大の課題が委員の人選であることを考えると、上記準備会と流域委員会の設置に際しては、この提言をぜひ採用すべきと考える。                                
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# by himenom | 2005-12-22 09:58

12月7日(水)晴 国土交通省河川局長様

2005年12月7日
国土交通省河川局長 様

NPO法人吉野川みんなの会   代表理事  山下信良
吉野川シンポジウム実行委員会 代表世話人 姫野雅義

私たちの意見と要望  

プロローグ 第十堰をめぐる新しい状況が生まれていることに配慮頂きたい

1 2005年3月,国交省徳島事務所は,第十堰の石組み破損の原因となっていた樹木群の伐採事業を地域住民と協働で実施し,10月からは伝統の青石を使った第十堰の石組み補修工事を開始した。このことは高く評価できる。

2 2004年2月,国交省四国地方整備局は,「21世紀に残したい地域の誇るべきみずべ空間」として「四国のみずべ88カ所」を選定し,第十堰をその一つに決定した。

3 2004年4月,徳島県知事は国交省四国地方整備局に対し,可動堰以外のあらゆる方法を検討することとあわせて、「第十堰を核とした地域作りができるよう配慮すること」を要望した。

4 2005年6月,文部科学省は,全国76カ所の地域子ども教室推進事業の一つとして,第十堰の豊かな自然と歴史を生かした「あそびの達人教室inだいじゅうぜき」を認定。地域のお年寄りがこどもたちへ川文化を伝える交流拠点として第十堰は大きな役割を果たしている。

5 観測史上最大の2004年台風23号洪水は,各地に多大な被害をもたらしたが,第十堰周辺の堤防は十分な余裕があった。

(1)吉野川整備基本方針を整備計画に活かすため住民も一歩を踏み出す

1 基本方針の決め方には問題がある。内容にも異論はある。だがもっと大事なことに注目したい。それは,開発と工事の時代を背負った吉野川旧工事実施基本計画に取って代わる、新河川法の理念を吉野川に体現するための新方針が誕生した,という事実である。23年ぶりのことである。

2 新方針は ①自然豊かな河川環境と河川景観を保全継承し ②地域の個性や活力を活かした歴史や文化が実感できる川づくりをする,という吉野川の基本目標を打ち出した。これに異存はない。ぜひ実現させたい。そのためにはどうすればいいか。

3 新河川法の理念と新方針の上記目標を、河川整備計画に具体化しなければならない。環境を守り総合治水を行うためには住民参加が不可欠であることを認識し、私たち住民は、大事のためには小事にとらわれず,勇気をもって新しい一歩を踏み出したいと思う。

(2)河川整備計画づくりに向けての提言と要望

1 吉野川の流域委員会を作るにあたっては,行政住民が知恵を出し合い,過去の経験を生かして,全国に対しても将来世代に対しも誇れるような吉野川方式を編み出してもらいたい。

2 そのためには,まずボタンをかけるときがもっとも大事である。1995年設置されたダム審の人選や運営に対する反省をふまえ,流域住民の意見を反映できるよう特に留意することが必要である。住民参加は「形だけの応答」に終わるのではなく「意味ある応答」でなければならない。

3 2001年,国交省徳島事務所の「明日の吉野川と市民参加のあり方を考える懇談会」が,最終提言で「計画づくりに入る前に,事業の目的,事業スケジュール,市民参加や合意形成の方法・ルールについて十分議論し,市民,行政が互いに納得して計画づくりを進めることが重要です」と述べているように,流域委員会に先立つ準備会の設置が必要と考える。

4 同最終提言は「行政と市民,流域各地域の間に立って中立的に計画をまとめる組織として,行政からは独立した検討委員会として位置づけるべきだと思います」と述べている。したがって、上記の準備会および流域委員会の設置に際しては,実効的な合意形成を達成するために、独立性の確保と委員の選任について特に留意して頂きたい。
                                                       以上
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# by himenom | 2005-12-08 11:09

12月1日(木) 晴 吉野川水系河川整備基本方針を活かす

  11月18日吉野川水系河川整備基本方針が策定された。 9月16日に始まった審議会はわずか3回,実質審議時間は2時間足らずで,吉野川の長期方針を決めてしまった。
せっかくみんなの会やシンポが,ビジョン21委報告書を提出して,広く議論を,と呼びかけたのに,説明の機会さえないまま不採用となった。 可動堰化のきっかけとなった基本高水毎秒24000m3は変わらず,第十堰もなにやら含みの残る玉虫色となった。 とくに住民参加の面では,吉野川の10年間を振り返ると,逆に後退した感もある。 そこでぼくは,なぜそんなにあわてるのか,と国交省を批判した。
だがステージは次へ移ったのだ。 この基本方針を受けて、さまざまなせめぎあいが予想される整備計画づくりがまもなく始まる。 そこで、この基本方針(新方針)は、整備計画づくりにどう影響するのか、いやどう活かせばよいか,という面から見ておく必要がある。

 この新方針策定は,1982年可動堰計画の発端となった改訂工事実施基本計画(旧計画)が策定されて以来23年ぶりのことである。 なぜ新方針を作らなければならなかったか、それは1997年の河川法改正にある。 
新河川法は河川事業に環境保全を義務づけた。 「環境保全」は「河川生態系の保全回復」と言い換えてもいい。 ダムなど治水利水中心の河川事業が,逆に将来世代の生存基盤を脅かす面を持ってきたことへの反省からである。
治水方法も変わった。 ダム中心の治水は、限られた条件の下では力を発揮するが、想定外の洪水に対しては逆に壊滅的被害のリスクを持つ。 そこであふれても壊れない堤防や被害を減らすことに重点を置いた総合治水を導入した。 「安全」の考え方を「机上の限定的な安全」から「持続的本質的な安全」へ転換させたのである。
さらに新しい方法論も加わった。 住民参加である。 環境を守り,総合治水を行うためには、行政だけでは不可能という理由による。 「住民参加」は、単なるお題目ではなく、事業の成否を分けるものとなった。
今回の基本方針の策定とは,このような新しい河川事業への転換を,吉野川でいよいよ具体化するための基本的事項を決める,ということだったのである。
 ではどう変わるのか。 新旧の方針を読み比べてみた。

 まず名称が違う。 旧計画は「吉野川水系工事実施基本計画」だが,新方針は「吉野川水系河川整備基本方針と整備計画」だ。 「工事実施」が「河川整備」に変わったのは事業目的が変わったからである。 旧計画の目的は,吉野川水系水資源開発基本計画から始まって新産業都市建設基本計画など9つもの開発計画との調整を図り,工事を実施する,となっている。 旧計画には開発やら工事やらがなんと多いことだろう。 ここを読むだけで,なぜ吉野川がコンクリートで覆われるのかがよくわかる。
 では新方針はどうか。 ①自然豊かな河川環境と河川景観を保全継承し ②地域の個性や活力を活かした歴史や文化が実感できる川づくりをする,のが目標だ。 そのために ③関係機関や地域住民と情報共有,連携強化して ④治水利水環境に関わる施策を総合的に展開する,という。 新旧目的の違いを一口で言えば,河川の「開発工事」から河川の「保全利用」への転換,であろう。 この総論部分は悪くない。活かしたい。

 目的が違えば何をするかも当然違ってくる。 旧計画では,築堤などの河道工事もするが,なんといっても「洪水調節を行う多目的ダム(4基)を建設する」のが,洪水対策の中心であった。 一方,新方針の洪水対策は「流域内の洪水調節施設」で行う。 具体的には,ダムの利水容量や堆砂容量を治水容量にあてるなど「既存施設の有効活用」で行うというのだ。
新たに水害防備林の整備・保全や堤防強化が盛り込まれたのも評価できる。 ふつうに読めば新規ダム建設は見直すと言うことだろう。
  参考になるのが2002年2月15日閣議決定された「吉野川水系水資源開発基本計画」(フルプラン)である。 1984年から2000年までの開発型の前計画を次のように変えた。   ①需要抑制など水利用を合理化して ②水需要の伸び率を下方修正し ③新規ダムを建設せずに安定的利水を可能にする。
今回の新方針により,治水利水とも,できるかぎり新規ダムは作らない方向性が打ち出されたと言っていいのではないか。 ならばその方向性を固め、そのための具体策に力を注がないといけない。 毎秒24000m3の基本高水は神棚に鎮座していてもらうためにも。

 では第十堰の可動堰化計画はどうか。 旧計画には「既設固定堰の改築を行って洪水の安全な流下を図る」(利水面では「第十堰の建設」)と書かれていた。 わずか1行だ。 これが全国的に有名になったあの吉野川可動堰計画の根拠なのである。 「第十堰改築に関する技術報告書」(95建設省四国地建)ではこのくだりを次のように説明していた。 「計画高水流量18000m/s(第十堰地点では19000m/s)を流下させるためには,これを改築することが必要であり,既設固定堰の改築として正式に工事実施基本計画に位置づけた。」
新方針が採用した表現はこうだ。 「治水上支障となる既設固定堰については,必要な対策を行い,計画規模の洪水を安全に流下させる。」 これはどういう意味だろうか。 旧計画の「改築」が,新方針では「必要な対策」に変わっているため,改築をやめて補修にした,とも読める。 一方第十堰は治水上支障があり、その「対策」の一つとして「改築」も含むと解釈すれば,可動堰再浮上はありうる,となる。 表現はまことに玉虫色なのである。
玉虫色になるのはせめぎ合いがあるからである。 住民の審議会初傍聴。ビジョン21報告書の提出。 新聞世論などの批判。 これらが第十堰を治水上の障害物と断定するのを防いだ。 そして10月26日の河川分科会に出席した飯泉知事は ①まず可動堰以外での検討②第十堰の応急補修 ③第十堰を核に地域作り,を要望した。 知事本人の出席は徳島だけだった。 国交省に与えた影響は大きかったに違いない。

こうしてみると,新方針には旧計画から変わるべき大きな方向性が現れているのではないだろうか。であれば、この方向転換(総論)の流れを、整備計画(各論)にしっかりと具体化させることが大切なのだ。 おなじみの総論と各論のずれを防ぐためにこそ,この新方針を積極的に生かすべきである。 新方針が古い考えの裏付けのために使われてはいけない。
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# by himenom | 2005-12-01 21:42

11月18日(金)快晴 国交省はなにをあわてているのか

急に冷え込んできましたがお変わりありませんか。
さて、吉野川など5水系の河川整備基本方針が今日付けで策定されました。
国交省の社会資本整備審議会で吉野川の基本方針の審議が始まったのが9月16日ですから、わずか2ヶ月で吉野川の長期方針が決まったことになります。

私たちは、2ヶ月前この審議が始まったことを知って驚き、ただちに森林の治水力に関する最新の研究成果を示して基本高水の検討を要望しましたが、説明の機会さえ与えられず、一方国交省の基本方針原案については、十分な根拠も示さないまま10月26日の河川分科会で了承されました。
そこで私たちは、11月14日、どういう根拠に基づいて基本方針を決めたのか説明を求め、データの開示を要請しましたが、河川計画調整室長の稲田修一氏から来た返事は、四国地整に情報公開法の開示請求をせよ、というものでした。

まるで、基本方針について住民に対する説明責任はない、というに等しく、せっかく住民がふるさとの川の将来像を進んで考えようとしても、これでは河川行政の住民参加はお題目にすぎません。
国交省はなにをそんなにあわてているのでしょう。
私たちは引き続きじっくりと説明を求めていくつもりです。

ニュースを聞いて友人たちにこんなメールを送った。
送られてきた国交省の回答書の茶封筒はボールペンで稲田氏の名前が書かれていた。ぼくよりほんの少しうまいがなんだかよく似た筆跡だった。いちど話をしてみたいと思った。
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# by himenom | 2005-11-18 23:51

11月6日(日)雨 国交省へ質問(その2)

国交省への質問テーマは吉野川の洪水対策の基礎となる基本高水流量である。
基本高水流量というのは、ダム計画がある地域では、たいがい問題になる数字で、どんなふうに問題になるかというと、吉野川ではこうだった。

①150年に1度の確率で発生する大洪水を毎秒24000m3と定める。(基本高水)
     ↓
②これを人為的に毎秒18000m3(第十地点では19000m3)まで減らす。(計画高水) 
     ↓
③6000m3を減らすために4つのダム建設(と第十堰の可動堰化)が必要。(ダム計画)

このように、これらの高水がきまると、算数計算で、流れ作業のようにダム計画が生まれてくる。だが、吉野川にはもう4つもダムを作る適地はないし、お金もない。そこで23年間計画は放置されてきた。完成のめどはまったくない。これが昭和57年改定工事実施基本計画の現状である。

安全確保をダムでやると言っておきながら無責任な話だが、まずは事実は事実と認めることが大切である。そのうえでどのような安全確保の方法があるかその選択肢を提示する。それが行政の責任というものであろう。

実は全国各地でこういう状況になっている。そこで、洪水を河道内の算数計算で処理をする方式は破綻しており、このやりかただけでは安全確保はできない、という見方が急速に広まってきた。「河道主義治水」から「流域主義治水」への転換という考え方である。オーバーフローしても壊れない堤防にする。降雨をいっぺんに川に集めない。そうやって被害を減らす。

1996年建設大臣の諮問機関である河川審議会の答申は、この考え方に基づいてなされたものだ。97年の新河川法はこの答申をもとに作られている。だから新河川法を根拠とする今回の河川整備基本方針には、この理念が盛り込まれなければいけないのである。旧来の工事実施基本計画を安易に追認するだけではいけないのだ。

もちろんこれは簡単なことではない。従来の縦割り行政の枠を超える大仕事である。だからこそ5年前、吉野川みんなの会は、さまざまな分野の専門家に呼びかけて、流域主義治水の第一歩として森林の保水力を生かす研究に取り組んだのである。

その結果、流域面積の83%を占める森の状態を改善することによって基本高水が大幅に下がることがわかった。いわば洪水の発生には手をつけない「後手の治水」ではなく、洪水のピーク流量をあらかじめ下げようという「先手の治水」の可能性をデータをもって示したのである。

これは行き詰まっている現行昭和57年計画を打開するための住民からの提案でもある。
一方、現行24000m3の基本高水を追認した今回の国交省の検討作業に、これら流域主義治水の視点が、どのように盛り込まれていただろうか。基本方針を決めるためにはこんな議論を避けて通れないのである。
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# by himenom | 2005-11-06 18:55