7月22日から25日まで北海道にいた。日高町のお昼の気温は17度Cで,徳島に帰ってきたらC32度である。札幌の空は赤とんぼが飛びそうな秋空だったのに,徳島空港は入道雲とクマゼミの合唱である。天上界から下界に降りてきたようだった。
今回,4日間も徳島を空けたのは,酪農学園大学の特別講義のためだった。というのは半分うそで,2日間はたしかにそうなのだが,あとの2日間は別のところにいた。 十勝川の上流に足寄郡陸別町という町がある。山を越えたら網走で,その先は知床半島,その向こうは国後島である。冬はー30度まで下がり日本で最も寒い町として有名だが,そのくせ内陸盆地のため夏は暑い。陸別というのはアイヌ語で「危険で高い川」の意味で,北海道でも最も開拓の困難だったところだったという。 この町に行ったのは,関寛斎が北海道開拓のため入植したところだと知ったからである。関寛斎は,蜂須賀藩のご典医で,幕末期の日本で屈指の外科医だったが,戊辰戦争で功を上げながら明治政府への栄達の道を断り,士族の身分も捨てて町医者となった。金持ちからはしっかりと診療費をとり,貧乏人からは一切金を取らなかったという。 それだけでも並みの人物ではないのだが,驚くのは72歳になってから北海道開拓を志し,82歳で自ら命を絶つまで北海道の原野に身を置いたことである。寛斎の夢は,自らの開拓農場から自作農を育成し,トルストイの理想村を実現することであったという。 陸別町には町立の関寛斎資料館がある。(写真は道の駅オーロラタウン。資料館はこの中にある。)上品で,媚びるところがなく,寛斎の志を伝えようとする,誠実な設計思想が感じられてすばらしい。一つ一つの資料が意味を持ってつながっているから,いつまでいても心地よく飽きさせることがない。入館料は300円である。平成5年開館というから13年目だ。わずか3000人の陸別町がよくぞここまで、と舌を巻いた。 一方,寛斎の人生で39年間と最も長く過ごした徳島には銅像しかない。司馬遼太郎は,この人が好きで「街道を行くー阿波紀行」のなかで,寛斎は仁者で,阿波第一等の人だと述べている。 司馬さんは,同じ徳島の北海道開拓の原因となった稲田騒動のことを「これほど愚劣な争いも珍しい」と切り捨て,その反動で思い出したのが寛斎だったらしく,わざわざ「関寛斎を知っていますか」と(徳島の)読者に問いかけている。しかしその徳島では、この偉大な先達は今ほとんど忘れられているではないか,と繰り返し書いている。少しあきれ気味の司馬さんの顔が浮かぶようである。 「寛斎にとって,徳島はどうだったんでしょうね」 ぼくは,陸別町の郷土史家,斎藤省三さんに聞いた。斎藤さんは関寛斎資料館設計の中心人物で,週刊「街道を行く」の関寛斎を執筆された。おそらく寛斎研究の第一人者であろうが,こちらが恐縮するほど謙虚でやさしい。斎藤さんは徳島から来たぼくを気遣ってか「寛斎は徳島のことを悪く言ったことはありませんでした。きっと徳島が好きだったと思いますよ。」とぼくをなぐさめるように言った。 それにしても,寛斎ほど自らの人生を制御し尽くした人は少ないのではあるまいか。名をあげ財を成し何不自由ない生活を,72歳にしてうち捨てて,社会事業のために極寒の地に入植する。大きな時代の転換期に,自分の意志で人生の各舞台を選び,最後まで人生と格闘し,味わい尽くす。究極の自由人という感じか。徳島にもこんな人がいたのだなあ。
by himenom
| 2006-07-31 00:03
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