2月3日(金)晴  「戒厳令の夜」

b0050788_22525143.jpg五木寛之こころの新書を,紀伊國屋書店でぱらぱらめくっていて,ふと目にとまったのが「戒厳令の夜」というタイトルだった。五木さんの代表作の一つだがまだ読んだことがなかった。気になってさっそく図書館から借りてきた。読み始めたらおもしろいので,一気に終わりまで読んでしまった。つい若いときのような読み方をしてしまったのは,借りてきた本が70年代という時代をそのまま連れてきたような気がしたせいでもある。石岡瑛子さんのデザインが秀逸だ。まず白黒写真を赤れんが色に着色した表紙(セピア色ではなくてなんとか色といっていたなあ)に惹かれふと裏返すと,裏表紙の内側には,五木さんが徳島出身の芥川賞候補作家佃実夫にこの本を郵送した茶封筒が貼り付けてあるではないか。 
タイトルページをめくると,真ん中に16ポイントの太ゴシックで

「その年,四人のパブロが死んだ」

とある。次のページにはパブロ・ピカソ,次にはパブロ・ネルーダ,その次はパブロ・カザルスと黒い縁取りのある写真が続く。そして偉大な芸術家たちの最後は,縁取りだけで真っ白の写真,20世紀最高の幻の画家ーパブロ・ロペスが・・・。と,ここまででぼくはもう石岡瑛子さんの術中に落ちてしまっていて,あるいは30年前の時代に心は逆戻りしていて,老いてなお鋭いピカソの眼光や,鳥の歌が聞こえてきそうなカザルスの写真や,茶色に変色したこれらのページの小さなシミまでつい見入ってしまうのである。
四人が死んだ「その年」とは1973年。日本の戦後高度成長終えんの年だ。ベトナム戦争が終結しアメリカは建国以来初の敗戦を経験した年でもある。ウオーターゲート事件,金大中事件,チリのクーデターなど闇社会の事件も相次いだ。「神田川」や「母に捧げるバラード」がヒットし,パルコ渋谷店やセブンイレブン1号店が生まれた。五木さんが「戒厳令の夜」を謹呈した佃さんは,この年「阿波自由党始末記」を書いていて,そしてぼくはこの年北九州筑豊からふらっと徳島に帰ってきたのだった。ぼくが筑豊を知ったのは,カッパブックスのベストセラー「にあんちゃん」を読んだ中学1年のときだが,大学に入って上野英信の「追われゆく坑夫たち」や土門拳の「筑豊のこどもたち」を見て,ますます気になる地域になっていた。日本最大の炭田地帯と国営八幡製鉄所を抱える筑豊北九州は,日本という国を近代国家に変貌させたその心臓部だった。頂点には石炭王麻生財閥(外務大臣麻生太郎は4代目)が君臨し,いつ死ぬかもしれない危険な地の底の仕事でよければ,ここにくれば前歴も問われずなんとか飯が食えた。あらゆる人間がここに吸い寄せられ,日本最大の吹きだまりとなった。何百年の伝統社会からはじかれあるいは脱出した人びとがやってきた。見ず知らずの人をすうっと受け入れるこの地の優しさにぼくは驚き感動したものだ。四国にはお接待の風習があるがこれとはかなり違う。この物語でも重要な舞台となる筑豊を、五木さんは心底好きだったようだ。ひょっとしたら五木さんはこの地を,縄文期にはじまる長い長い時間を,国家の枠組みの外で生き続けた漂白民たちの世界につながる入り口、だと感じていたのではあるまいか。物語の中で幻の天才画家パブロ・ロペスが描き続けたのはユーラシアの漂白民ジプシー。国家の論理に翻弄され続けるこのロペスの名画を守るのが,ほろびゆく日本の漂白民山人族(サンカ)と海人族(海部)。「国籍を捨て,四辺の海をすみかとする一つの自由な放浪共和国の民としてよみがえるのだ。その海人の仲間の資格は,ただ海に生き海を好む,ただそれだけなのだ。」
この物語のもう一つのテーマは老いである。
ぼくももう59歳になったためか,やたらそんな箇所にもひっかかるのである。
「老いというものが,肉体だけでなく,人びとの心をどんなふうに衰えさせていくか」と書かれるとぎくっとする。「しかし,彼はその老いに逆らって,最後の一瞬を燃え尽くして死んだ。」というのを見てほっとする。するとまた「人間は老いてゆく。老いてゆくとともに多くのものを失ってゆく。ただ自分でそれに気づいていないだけだ。」とでてくるので,やっぱり,と絶望的になる。  五木さんはこのときまだ40代のはずだよ。なんでこんなに老いを絶望しなければいけないんだよ。とぶつぶつ言っていると,五木さんは最後にこうとどめをさすのだ。16ポイントの太ゴシックで。

「1973年,四人の老いたパブロが死んだ」

あとがきに五木さんは「ただ,予感としてあるのは,今後,世界はまちがいなく「戒厳令の時代」に属するようになるだろう」と書いている。それから30年,作家の鋭い予感は,違う意味で深刻な時代を言い当てていたようだ。だが気になる問題は老いである。くるなくるな,しっしっ,あっちへいけ,まだまだ逆らうぞ,が正直な気持ちです。はい。
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by himenom | 2006-02-03 23:04
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